馬場文耕『皿屋舗辨疑録』について二

前回に続き『皿屋敷―幽霊お菊と皿と井戸』の没原稿公開。

丑御前

 この物語の舞台となる青山主膳の屋敷は、武家屋敷がずらりと並んだ五番町の一角にあったという設定である。文耕はその土地にまつわる因縁話を語りだす。
 時代は「家光将軍の御代(みよ)」というから、三代将軍徳川家光の治世下(一六二三〜一六五一)で、文耕の時代から百年以上も前のことである。江戸五番町に屋敷をかまえていた小姓組の旗本五名が、幕府より赤坂への転居を命じられた。五名の旗本が転居した跡地二五〇〇坪は、当時の小姓組番頭・吉田大膳亮の名をとって吉田屋鋪とも、また建物は転居先の赤坂に移して更地になったので「さらやしき」とも呼ばれた。のちにこの吉田の更屋鋪は天樹院に与えられ、立派なお屋敷が建てられた。
 天樹院とは、二代将軍徳川秀忠の娘で、家光の姉、千姫(一五九七〜一六六六)のことである。豊臣秀頼に嫁いだが、実家の徳川家と婚家の豊臣家が対立し、一六一五年の大坂夏の陣大坂城が落城した際、祖父徳川家康の命を受けた坂崎直盛(出羽守)によって猛火の中から助け出されて江戸にもどり、翌年、本多忠勝の孫・本多忠刻と再婚。一六二六年に忠刻が病死したあとは天樹院と名乗った。その時はまだ三十歳になるかならぬかの若さで、文耕によれば、身持ちが悪く淫蕩だったと伝えられる(「その行儀悪しくいたづら人なりしと申し傳ふ」)という。
 五番町の空き地が吉田の更屋鋪と呼ばれた経緯が事実かどうかはわからないが、天樹院・千姫の経歴については、家光の妹(「家光将軍御妹君」)としたり、本多忠刻を忠勝の嫡男としたりしているほかは、おおむね史実に即している。ただし、天樹院の屋鋪は竹橋(今の北の丸公園のあたり)にあった。その上、彼女が淫乱だったという伝承は、かなり怪しい話である。だが、文耕はその怪しい伝承に飛びついて、それをふくらませていく。
 天樹院のために吉田の更屋敷に建てられた豪華な屋敷は吉田御殿と呼ばれた。さて、その天樹院が、多くの男に情をお寄せになったことは世間ではよく知られていることだ。御殿の二階から道行く男を品定めして、若侍、若い町人の美男子を見つけると、かわいい女中たちを使いに出して御殿に招き入れたので、その頃は子どもらも「吉田通れば二階から招く」と口ずさんだという。
 このように文耕は語るのだが、「吉田通れば二階から招く」という歌は「しかも鹿の子の振り袖が」と続き、実は東海道吉田宿(今の愛知県豊橋市)の飯盛女が客を引く賑わいを歌ったもので、千姫とは関係がない。これについて、文耕は奇妙な注を付けている。

一両年以前も此の歌はやりし事あり、其の頃古き歌なり。昔より老人などの覚えて唄ひし歌なり、狂言にも故山中平九郎牛の御前と云ふ吉田の後室になり、一味の者を二階より招きし狂言、四十年以来跡にいたせし事を覚えて話せるを聞けり、

 この歌は以前にも流行った、そのころすでに懐メロで、老人が覚えて唄っていた歌だ。歌舞伎にも故・山中平九郎が牛の御前という吉田の未亡人に扮して、一味の者を二階から招き入れる芝居があり、四十年ほど前に演じたと話しているのを聞いた、というのである。
 山中平九郎は元禄時代に活躍した歌舞伎役者で、文耕の別の著作『江戸著聞集』によれば「極めて恐しき事の上手なる役者にて、悪方の名人、鬼女怨霊般若に名を得し者」とあり、悪人や怨霊など、とにかく恐ろしい役を演じるのが得意な役者だったようだ。その山中平九郎が実の女房が気絶するほど恐ろしい顔を工夫して演じた芝居が「妻ごひ角田川(つまごいすみだがわ)と云ふ狂言」で、「牛の御前といふ女と成りて、右の手に鏡を持ち、左の手へ長き黒髪を握つて…」とある。ここから『皿屋舗辨疑録』で山中平九郎が牛の御前を演じたという芝居が「妻ごひ角田川」であることがわかる。
 現在、歌舞伎に「妻ごひ角田川(つまごいすみだがわ)」という演目は伝わっていない。ところが、『歌舞伎年表』には享保十八年(一七三三)に「妻隠隅田川(つまごみすみだがわ)」と題された芝居が上演された記録がある(横山泰子氏のご教示による)。そこには「吉田ノ少将」という劇中人物が登場したらしい。これが文耕のいう「妻ごひ角田川」である可能性は高い。
 この芝居に登場する牛御前とは、古浄瑠璃『丑御前の本地』に登場する牛の顔をした鬼女「丑御前」のイメージが原型になっているものと考えられる(飯倉義之氏のご教示による)。そして、東海道吉田宿の、今でも豊橋祇園祭の行われる吉田神社(豊橋市)はもと牛頭天王社だった。こうして、牛・鬼女・吉田(地名)・吉田(役名)・山中平九郎・怨霊というイメージの連鎖が出来上がって、文耕の千姫像に奇妙なオーラをまとわせるのである。