馬場文耕『皿屋舗辨疑録』について

退院を急いだのにはわけがあって、寄稿した『皿屋敷―幽霊お菊と皿と井戸(江戸怪談を読む)』の刊行記念イベント(東雅夫氏いわく皿屋敷大会)が7月30日に催されるからでもあった。
http://www.tokyodoshoten.co.jp/blog/?p=8653
7月30日御用とお急ぎのない方は神田神保町東京堂書店にお越しください。
ついては、担当した馬場文耕『皿屋舗辨疑録』の注として書いたものの、注にしては長すぎるとしてカットされた没原稿を掲載する。

「番町盤町の古實の事」について

 馬場文耕『皿屋舗辨疑録』は、物語の舞台となる「番町」という町の名の由来から語り始める。
 番町という町名は、御番衆(番方)の屋敷があるからそう呼ばれた。番衆(番方)とは徳川幕府の軍事部門、軍隊である。そのうちの主戦力が大番組で、初めは六組、のちに増員されて十二組があり、これに属する旗本たちは、緊急の際にはすぐに江戸城に集合できるように、江戸城の北西に接した現在の千代田区番町のあたりに屋敷を与えられた。そこで、たとえば一番組の隊員たちの屋敷があったあたりを一番町と呼ぶようになったのが、番町という地名の由来である。
 文耕は幕府御家人(御徒組)であったらしいので、こうした事情を知らなかったはずがないのだが、なぜかとんでもない珍説を述べている。しかも、それに太宰春台や荻生徂徠といった当時の著名な学者の名を挙げて自説に箔付けしているけれども、これがちょっと怪しい。
 たとえば、「其の屋鋪の姿碁盤の目の如くに分れをればとて盤町とも唱へけるとかや、此の古實既に徂徠先生の政談と云ふ書にも載せて、江戸の古實の一ツなり」と、番町の屋敷は碁盤の目のようになっているので(碁盤に引っかけて)盤町とも呼んだことが徂徠『政談』にも載っている、と文耕はいう。
 ちなみに、ここで文耕が持ち出した荻生徂徠は並みの儒学者ではない。当時の学問の主流は儒学であり、なかでも朱子学が幕府公認の学問とされていた。それに対して徂徠は、自らの方法である古文辞学を掲げて朱子学を批判し、江戸の学界に一大論争を巻き起こした。徂徠の学問=徂徠学は一世を風靡するとともに「徂徠学の登場はスキャンダラスなもの」とみなされた(子安宣邦「事件」としての徂徠学 (ちくま学芸文庫)』)という。このように話題性の高い徂徠の名前を持ち出したところに文耕のジャーナリスティックなセンスが見てとれる。
 さて、荻生徂徠政談 (岩波文庫)』(辻達也校注)を見てみると、巻之一「江戸町中ならびに武家屋敷のしまりの事」には、たしかに「碁盤の目をもる」という表現がある。しかし、それは文耕のいうような住宅の区画のことではなく、行政制度を整備することのたとえとして言われている(「右の如く法を立て替うるときは、碁盤の目をもるが如し」)。はたして文耕は「碁盤の目をもる」という徂徠の言葉を早とちりしたのか、それとも、承知の上で、わざと間違えて見せて笑いを誘っているのか。
 この『政談』は、五代将軍綱吉の側近・柳沢吉保のブレーンであった荻生徂徠が、八代将軍吉宗に献上した政策提言集で、本来は幕府の機密文書であった。だから一般市民はもちろん、徂徠の直弟子たちも内容を知らない「幻の未公開作品」だったのだが「宝暦年間(一七五一〜一七六四)以降、徐々にその写本が流通し始め」、なんと「高額で取引もされた」らしい(『荻生徂徠「政談」 (講談社学術文庫)』、高山大毅「解説」より)。
 岩波文庫版の辻達也氏の「解説」によれば、文耕は『皿屋舗辨疑録』と同じ宝暦八年(一七五八)刊の別の著作(『愚痴拾遺物語』)でも「徂徠先生の政談を見れば」云々と書いているので、「宝暦年間には、市井の講釈師にも『政談』の存在は知られるようになっていた」。しかし、文耕は『政談』からと言って徂徠の別の本『南留別志』の文章を引用したりしているので、「その知識は伝聞であったかもしれない」としている。
 単なる勘違いか、あえてボケて見せたのか。ともあれ、文耕が、江戸の文人たちが注目していた徂徠『政談』に何らかのかたちで接して、それを講釈のネタとして使っていたということは確かだ。彼が流行に敏感に反応するジャーナリストという側面を持っていたことをうかがわせるエピソードである。