『呪怨』感想文

結局これはお化け屋敷です。
この映画では、江戸時代であれば間違いなく妖怪の仕業と見なされたような怪異が、幽霊に原因するものとして描かれています(この点については井上円了の研究を参照)。

井上円了・妖怪学全集〈第2巻〉

井上円了・妖怪学全集〈第2巻〉

この点で『呪怨』で描かれているのは妖怪としての「霊」だということができます。
子どもの霊はどうみても座敷わらしですし、その母親の怨霊は異形の鬼女です。ラストシーンでふくれあがった内蔵のような下半身を引きずりながら這い寄ってくる姿が描かれていますが、あれは道成寺清姫に列なる蛇身の鬼女のイメージでしょう(高田衛『女と蛇』女と蛇―表徴の江戸文学誌参照)。
いずれも幽霊として設定されているものの、そこに描かれているのは妖怪です。

籠について

映画のクライマックス、奥菜恵演ずるところのヒロインとお化け屋敷に巣くう悪霊とが直接対決するシーンで、ヒロインが指のすき間からあたりをのぞくようにして見ることで自分に取り憑いているものを見る場面がありますが、これは籠の目からのぞくことで見えない怪異の実体を見ることができるという民俗信仰を踏まえたものだと言うことができます。
籠は神奈川のある地域では一つ目小僧を祓うための呪具として用いられていますが、これも籠には妖怪の姿を見あらわす力があると信じられていたからです。
作品中で悪霊の姿が映るテレビ、鏡、カメラ、ビデオなども、肉眼で正視することでは見えないものも何らかのフィルターを通すことで見えるようになるという点で、基本的には籠の目からのぞくのと同じ考え方によるものです。
このように映画の一場面を民俗学の知見を援用してまことしやかに説明することはできますが、こうした民間信仰が地域の年長者から年少者へ、親から子へ、まさに民間信仰として継承されていくような地域共同体、信仰共同体の実態が、果たして現代でも生きているのだろうかという疑問があります。
私自身、籠の霊力に関しての情報は親からそれとなく教えられたものではなく、柳田国男宮田登『妖怪の民俗学ISBN:4002600521、大島健コト八日―二月八日と十二月八日 (双書フォークロアの視点 (8))といった民俗学の先達の書物を読むことによって知ったのです。
そしてそれらの書籍は、ほとんどが専門書で、都会の読書人口が多い地域の図書館や書店にしか在庫がないのが現実です。
つまり、こうした民俗学上の知識は、映画監督や、ジャーナリストや、民俗学徒や、自称怪談研究家にこそ学習可能なものであって、現実に籠を棹の先に掲げて、異界から到来する災いを避けようとする人々に共有されているわけではありません。
それは民俗の当事者たちが行うことのない、調査、収集、整理、比較、分析という作業を経て得られた仮説なのです。
私たちが発見する民俗の伝統とは、共同体から切り離された都会人が再構成した伝統なのではないのでしょうか。

救いのなさについて

呪怨』の特徴として、悪霊側の圧勝に終わる、生きている人間は弱く何もできずに死んでいくという点が挙げられると思います。
従来の怪談の作りであれば、第一撃をしのいだヒロインが最終局面で再登場するのですから、殺人に直接荷担していない子どもの霊「トシオ君」と交感するかなにかして、なんとか生き延びてこの惨劇の語り部となるという結末もあり得たと思います。
『リング』も苦い解決でしたが、主人公はなんとか生き延びています。

リング [VHS]

リング [VHS]

しかし、『呪怨』のラストシーンでは救いがなく終わります。
抵抗不可能な凶悪な暴力の前に無惨に死んでいく人々の姿が描かれています。
これはサブストーリーの元警官とその娘のエピソードでも同じです。
すでに取り殺されてしまった元警官は、死の直前に娘の危機を一度は救い、かつ、その後、悪霊に取り憑かれた娘のもとに現れ、無言の警告を発していますが、娘はその甲斐もなく亡き父の位牌を納めた仏壇に呑み込まれてしまいます。
人が仏壇に呑み込まれる、これは歌舞伎『東海道四谷怪談』で用いられる「仏壇返し」の趣向を踏襲している場面です。ISBN:4106203456
四谷怪談』と違うのは、お岩様が仏壇に引き込むのは、伊右衛門とともに自分を裏切った秋山長兵衛という悪党への復讐だったのに対して、『呪怨』で仏壇に呑み込まれる少女は、これといった悪事を犯していない。あえて言えば、友人たちを置いて、一人、お化け屋敷から逃げ帰ったというだけなのです。
つまり、彼女が祟られ、死ななければならないような必然性が感じられないという点に特徴があります。
お岩様の祟りは二重三重の意味で裏切られたことへの復讐ですから、どんなに恐ろしくとも観衆の共感を得ることができます。
「あんな残酷な浮気男はやっつけてしまえ」と思えるわけです。
ところが『呪怨』の悪霊一家は、その祟りの動機がよくわからない。動機なき殺人の心霊版という側面があります。
あえていえば、被害者は彼らが生前住んでいた住宅に足を踏み入れたものに限られているようなので、結界のタブーを犯したものへの懲罰とでもいうべきでしょうか。
結界のタブーは、倫理上の善悪を越えたルールですから、どんなに善人でもそれを破れば容赦なく祟りがあります。
この容赦のなさ、それはコミュニケーションの不可能さといってもよいだろうと思います。
冒頭の場面でヒロインが子どもの霊とわずかに言葉を交わし、名前を聞き出していますから、これは救済への伏線かなと思ってみていたのですが、その予想は裏切られました。
呪怨』の悪霊は、犠牲者に有無をいわさず殺してしまいます。
犠牲者側からすれば「何でこんな目にあうのかわからない」というところだと思います。
ここに私はこの映画が表現している恐怖の現代性を見ることができるように思います。

結界のタブー

繰り返しになりますが、民俗共同体の信仰は、脈々と息づいているどころか、明らかに断絶しており、わずかに古来の形を残しているものや、復活したように見えるものも、現代人の生活感覚の文脈の中で再構成され、再配置されていると考えられます。
結界のルールもそうです。
入らずの森、見るなの座敷も遠慮なく開発し、リフォームしている現代で、効力のある結界のタブーは、菊のタブーくらいなものではないでしょうか。
万人が認める神聖空間など、いったいどこにあるのでしょうか。
私は各地のいわゆる心霊スポットで、肝試しに来た若者たちの馬鹿騒ぎによって地元の住人が迷惑しているのを知っています。
そこが心霊スポットであるのは、禁忌の空間であるという認識を共有している人たちにとってのことなのです。
仕事で、遊びで、地域共同体の外部から来訪するものにとって、その認識は共有されるべくもありません。
そして「地域」というものがまったく名目だけのことになっている都会では、結界のタブーなどあってなきが如しなのです。
呪怨』の舞台もそうした都会の住宅地に設定されています。
地域の相互扶助がない、つまりは共同体が機能していないからこそ、ヒロインの勤務する老人介護施設があるのです。
お化け屋敷といいながら、その噂をささやく隣近所の人々が映し出されないのも、隣家で悲鳴を上げている人がいるのに不審に思う人がいないのも、寝たきり老人の介護に一人暮らしの若い女性が派遣されてくるのも、すべてこの映画の舞台が、共同体機能をとうに失った都会であることを示しています。
これが形だけでも共同体機能が残っている村落であれば、かつて惨劇が行われ、祟りがあるような家は更地になり、お地蔵様か何かが建立されていることでしょう。そして、あそこには近寄るなというタブーが伝えられているはずです。
この映画の描き出している恐怖は、結界のタブーなど伝統的な怪談の道具立てに仮託してはいるけれども、その実態は、理由なき暴力への恐怖です。
わけもわからず殺されていくことについての恐怖、それが監督や脚本家の意図したものかどうかはわかりませんが、結果として描かれているのはそういうことです。
かつてこうした怪談がなかったかというとそういうことはありません。
近世初期の怪談には凶悪な妖怪や悪霊が、たまたま通りがかった人を惨殺する話もあります。
ただ、その社会背景が異なるので、同じ伝統が復活したのだとまではいえない。
あえていうなら、そうした怪談では、土地の者は禁忌を怖れて近寄らない場所に立ち入ってしまうのは旅の者だということになりますが、現代の都市生活者は、自宅に居ながらにして共同体の外部を旅している漂流者であって、いわば誰もが旅の者であり、理由なき暴力がいつ我が身に降りかかるのかわからない不安を抱えているということでしょう。