小さな政府

萱野稔人『国家とはなにか』を再び読み始める。

こんにちの公理系の特徴はつぎのような点に見いだされるだろう。雇用のフレキシブル化がさけばれ、失業者は−−やむをえないものとして−−なかば放置される。財政難または自己責任という理由のもとで社会保障制度は縮小させられていく。工場の海外移転にともない国内市場は空洞化しはじめた。冷戦状態も解消し、革命の恐れはもはやほとんどない。社会的矛盾を緩和すクッションであった、生存権社会権は急速に形骸化しつつある……。(萱野、p259)

ドゥルーズ=ガタリに依拠して採用された「公理」という言葉はなじみがなくて、ちょっと引っかかるが、それでも一社会人として、ここに描かれている現象はすべて現実にあてはまることはよくわかる。
改革とは小さな政府を実現することだ、と言われはじめてから起きた事柄を要領よくまとめればこういうことだ。
究極の福祉国家と思われた社会主義が現実には管理社会体制になった挙げ句に崩壊する様を見たからか、世論は小さな政府こそ自由で活力ある社会を実現するというスローガンに説得されたように見えた。
しかし萱野は、世間の期待とは裏腹に、小さな政府こそ全体主義につながるという。

全体主義的実現モデルにおいては、資本の価値維持や外的部門の均衡にかかわる公理だけが保持され、住民の生存条件や権利にかかわる公理は積極的に廃棄される。(中略)こうした公理の除去によって、国内市場は崩壊し、社会矛盾は増大する。そして、そこから生じる攪乱的な諸要素を制圧するために、国家はより強権的な手段の行使をいとわないだろう。公理の縮減の埋めあわせに、国家の暴力性が前面に出てくるのだ。(萱野、p260)

国家の機能のうち、社会の成員の社会権生存権の保障という側面を縮小すると、食い詰める者が出てくるのは道理だ。
食い詰める、というのは、極端な場合は生きていけない、少なくともよりマシな人生を期待できない、不安な状態に置かれる。小さな政府路線の支持者は、その不安こそ競争への原動力だ、と言うのだろうが、競争という生き方になじめない、あるいは競争することが不可能な人間も実在する。
そうしたタイプの人がとることのできる道は限られている。

  1. 政府に可能な限り自分のすべてを譲り渡し、ほんのわずかな恩恵にすがって食いつなぐ奴隷となる。
  2. どうせ政府の庇護は期待できないのだから、法の埒外で、あるいは法を犯してでも、荒稼ぎをする。
  3. 疑似宗教的なイデオロギー、精神世界の中に閉じこもる。
  4. あとはなにがあるのだろう?あ、自殺という手があったか。

これらが萱野の言う「攪乱的な諸要素」であろうか。
こうした人々が増えれば、いわゆる社会不安の暴発を押さえるために、政府は観念のレベルから生理・物理のレベルに至るまで、さまざまな統制を行うだろうことも予想の範囲内である。
だから萱野は「「小さく」見える国家こそ、もっとも抑圧的な国家である」と言うのだろう。
こうした議論はなにも本書がはじめてではない。渋谷望らもかねてから説いていたところである。
ただ、萱野の議論の仕方は抽象的であるが、それだけに、解きがたいパズルを解いてくれるような期待がもてる。そう思ってしまうのは、私が抽象的な議論に劣等感を抱いているためかも知れないが、もう少しつきあってみたい。