フーコーの戦争観

明日の読書会にそなえてフーコー知への意志 (性の歴史)』を読み返していたら、次のような箇所があった。

かつて十九世紀以降の時代ほどに戦争が血腥かったことはなかったし、また、勿論あるゆる差異を考慮にいれての話だが、それ以前には、かつて体制が自分たちの住民に対してこれほどの大量殺戮を行ったことはなかった。しかしこのような死に対する途方もない権力は−−そしてこれが権力にその力の重要な部分と、またその限界をあれほどまでに拡張したその厚顔無恥を可能にしているものだが−−今や生命に対して積極的に働きかける権力、生命を経営・管理し、増大させ、増殖させ、生命に対して厳密な管理統制と全体的な調整とを及ぼそうと企てる権力の補完物となるのである。戦争はもはや、守護すべき君主の名においてなされるのではない。国民全体の生存の名においてなされるのだ。住民全体が、彼らの生存の必要の名において殺し合うように訓練されるのだ。大量虐殺は死活の問題となる。まさに生命と生存の、身体と種族の経営・管理者として、あれほど多くの政府があれほど多くの戦争をし、あれほど多くの人間を殺させたのだ。そしてこの輪を閉じることを可能にする逆転によって、戦争のテクノロジーが戦争を戦争の徹底破壊へと転じさせればさせるだけ、事実、戦争を開始しまたそれを終わらせることになる決定は、生き残れるかどうかというむき出しな問いをめぐってなされるようになる。核兵器下の状況は、今日、このプロセスの到達点に位する。一つの国民全員を死にさらすという権力は、もう一つの国民に生存し続けることを保証する権力の裏側に他ならない。生き残るためには敵を殺すという、白兵戦の戦術を支えていた原理は、今や国家間の戦略の原理となった。しかしそこで生存が問題になるのは、もはや主権の法的な存在ではなく、一つの国民の生物学的な存在である。民族抹殺がまさに近代的権力の夢であるのは、古き〈殺す権利〉への今日的回帰ではない。そうではなくて、権力というものが、生命と種と種族というレベル、人口という膨大な問題のレベルに位置し、かつ行使されるからである。(p173-p174)

前後の文脈からすると、いささか唐突にも感じられるこの戦争への言及は、フーコーにとってどういう意味を持っていたのだろう。

死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた、と言ってもよい。(p175)

このように言い表される「生−権力」のなかで、殺させる権力、死を覚悟させる権力はどのような位置を占めているのだろうか。