ベンヤミン『暴力批判論』2そうは問屋が卸さない

とりあえず「暴力は、さしあたっては目的の領域にではなく、もっぱら手段の領域に見いだされうる。」(p29)ということにして話を進めたい、とベンヤミンが言っているのだから、それに積極的な反論を思いつかないうちは言うことを聞いておこう。
自己目的化した暴力、暴れたいという純粋な衝動、というものもあるだろうと思わないではないのだが、そういうことを言いだしたらキリがないので、とりあえず棚上げにして先を読む。

暴力が手段だとすれば、(中略)それぞれの特定の場合について、暴力が正しい目的のためのものか、それとも正しくない目的のためのものかを問いさえすればよく、したがって暴力の批判は、正しい諸目的の体系のなかに含まれていることになるけれども−−けれども、そうは問屋が卸さない。(『暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)』p29-p30)

「そうは問屋が卸さない」というのは、ドイツ語にもこのような言い回しがあるのか、それともよく似た意味のドイツ語の慣用句を訳者が意訳したのかは知らないが、もう少しして私の頭がいま以上に惚けて、ベンヤミンが何を言っていたのかなんて忘れてしまったあとでも覚えているだろう。あのねーベンヤミンという人の本には「そうは問屋が卸さない」と書いてあったんだよ、と、まだ幼い姪っ子が大きくなったときに話して聞かせるのではないか。伯父さんたらまたその話ばっかり、と冷やかされながら。
いったいなにを問屋が卸してくれないのか、ある行為のための手段の評価はその行為の目的によって判断される、ということでなければならないだろう。ベンヤミンの文言にそえば、手段は目的が正当化してくれる、ということだ。これを問屋が卸してくれないとすると、善意とか大義とか国益とか、その他いろいろなものが商売に困るだろう。
なかでも槍玉に挙げられているのが、自然法である。

自然法は、正しい目的のために暴力的手段を用いることを、自明のことと見なす−−ちょうど、目的地へ向けて肉体を動かしてゆくことを、人間が生得の「権利」と見なしているのと同じように。(p30)
自然法の国家理論は、諸個人が自己の暴力のすべてを国家のために抛棄する、と考えるが、その前提には(たとえばスピノザが、その神学=政治論のなかではっきり認めているように)、こういう合理的な契約を結ぶ以前の個人それ自体は、事実として所有している任意の暴力を、権利として行使することもできる、という考えがある。(p30-p31)

スピノザ『神学・政治論』の該当箇所は次の通り。

斯くて自然の支配の下にのみ在ると観られる限りに於いての各人は、自分に有益であると判断する(健全な理性の導きに依ってにもせよ又感情の衝動に依ってにもせよ)ところの一切を最高の自然権に基づいて欲求し得るのであり、又之をあらゆる方法で−−暴力に依って、或いは欺瞞に依って、或いは懇願に依って、或いはもっと容易に思われる何らかの手段に依って、−−自分の手に入れてよいのであり、従って又各人は自分の意図の達成を妨げようとする者を自分の敵と見なしてよいのである。(下巻、p166)

ただし、スピノザ国家論 (岩波文庫)』には次のような表現もある。

人類に固有なものとしての自然権は、人間が共同の権利を持ち、住みかつ耕しうる土地をともどもに確保し、自己を守り、あらゆる暴力を排除し、そしてすべての人々の共同の意志に従って生活しうる場合においてのみ考えられるのである、と。(スピノザ『国家論』p28)