ベンヤミン『暴力批判論』4体罰

どんどん読むつもりが1頁ごとに引っかかって先に進まない。

現代のヨーロッパの法関係は、権利主体としての個人についていえば、場合によっては暴力をもって合目的的に追求されうる個人の自然目的を、どんな場合にも許容しないことを、特徴的な傾向としている。(p34)

この一例として「教育者のもつ処罰権の限界についての法律」が挙げられている。ベンヤミンが何を念頭に置いているのか、具体的にはわからないが、おそらく体罰の禁止であろう。
しつけか児童虐待か、ということが問題になることがあるが、家庭という私的な空間では結果がすべてである。死んじまえと思ってぶん殴ってもそれでその子が立ち直って幸せになればそれは愛のムチだし、親の主観ではどんなに愛情がこもっていようと殴られた子がケガをしたり死んだりすれば傷害であり殺人である。これは逆にいえば、しつけという目的を達成するためであれば、家庭においては体罰は許容されるということになる(体罰を奨励しているのではない、念のため)。
ちょっと例の挙げ方が悪いかも知れないが、このように理解される家庭、あるいは私的空間とは「自然目的がひろく野放しにされている諸領域」の一つだと言えよう。
しかし、学校という公的な場所では、そうはいかない。
ニュースによると「小学生の暴力、過去最多」になったそうだ。

 2004年度に公立小学校の児童が校内で起こした暴力行為は、上昇に転じた、前年度を290件上回る1890件で、1997年度の現行調査以降、2年連続で過去最多を更新したことが22日、文部科学省の「問題行動調査」で分かった。中高は増加した前年から減少に転じた。文科省は「暴力行為をする小学生がいる一方で、教員が子どもを注意深く見るようになったことも増加の要因ではないか」としている。
[共同通信社:2005年09月22日 18時05分]http://newsflash.nifty.com/news/tk/tk__kyodo_20050922tk011.htm

この調査結果が「1997年度の現行調査以降」のものであることや、「暴力行為をする小学生がいる一方で、教員が子どもを注意深く見るようになったことも増加の要因ではないか」という文科省のコメントを無視して、そらみろ最近の子どもは、という軽率な論調も出てくるだろうが、ここでこの例を取り上げる意図はそこにはない。
この調査が「児童が校内で起こした暴力行為」についてのものだということに注意したい。学校という公的な場所では、たとえ児童であろうと暴力は監視の対象になるということである。児童の暴力行為には、よほど過度でなければ、法的制裁が加えられることはまれだろう。けれども、それは監視はされているのである。たとえ小学生であろうと「多かれ少なかれ暴力的に追求されるような個人の自然目的はすべて、法的目的と衝突せざるをえない」からだ。

法は個人の手にある暴力を、法秩序をくつがえしかねない危険と見なしていることになる。

ちょっと中途半端だが、腹が減ったので今日はここまで。