応答責任について

「応答責任」という言葉は、レヴィナスデリダの名前と結びつけて語られるのがふつうですが、責任という言葉がresponsabiliteの翻訳語であり、その原語にrespons(応答)という言葉が含まれている以上、ヨーロッパ語圏の人々には、哲学的に洗練されていなかったとしても、責任といえば何かしら応答責任のニュアンスをもって理解されていたのだろうと想像されます。レヴイナスやデリダはその曖昧だったかもしれない伝統をラディカルに突きつめた、そう私は理解しています。
さてしかし、現代の日本でこの概念を用いて議論をしている代表的な論者として高橋哲哉が挙げられますので、以後、高橋の応答責任論についてのみ私が理解したところを述べます。なお、高橋自身は「応答責任」という四文字熟語を術語のように使っているわけではなく、「応答可能性としての責任」というような表現を用いていますが、ここでは「応答責任」の語と同じこととします。
また、私は高橋の言うところを正確に、また十分に理解しているわけではありませんが、おそらくは彼の社会問題への厳しい発言の故に、極端な理想主義者、四角四面の道徳主義者というレッテルを貼られがちであることに同情の念をもっていることを断っておきます。

応答について

さて、高橋の応答責任論の基本的構図はやはり次の文章によく示されていると思います。

あらゆる社会、あらゆる人間関係の基礎には人と人とが共存し共生していくための最低限の信頼関係として、呼びかけを聞いたら応答するという一種の“約束”があることになります。もちろんこの応答にはさまざまな形がありますが、とにかく応答する、呼びかけを聞いたら応答するという一種の“約束”がある。この“約束”はいつ、どこで、だれとなされたのか分かりませんけれども、そういう非常に古い、原初的な“約束”ですが、私たちが言葉を語り、他者とともに社会の中で生きていく存在であるかぎり、この“約束”に拘束されるとわたしは考えるのです。この“約束”を破棄する、つまりいっさいの呼びかけに応答することをやめるときには、人は社会に生きることをやめざるをえないし、結局は「人間」として生きることをやめざるをえないでしょう。(高橋『戦後責任論講談社・単行本、p25)

この文で問題となるのは、「“約束”に拘束される」と「「人間」として生きることやめざるをえない」という文言でしょう。
「約束」については、それが「約束」であって「法則」ではないことが興味深い点です。法則であればそれを破棄することなどできません。自然現象における物理法則のように必然的に貫徹されるはずです。と同時に、もし呼びかけ−応答関係が法則であれば、それを果たすか果たさないかなど問題になりません。そこには責任への問いなど生じようもない。月の満ち欠けの責任を問うことなどなんの意味もないように。
しかし、「約束」であれば、それが果たされることは期待はされるけれども、必ずしもそうなるわけではない、つまり約束は破られうることがあらかじめ想定されていることになります。
ですから、「“約束”に拘束される」とは、約束を守らなければならないというタブーのようなものというよりは、約束を果たすか果たさないか、破るか破らないか、という判断を行うことからは免れえない、というように受け止めた方がよいだろうと思っています。高橋は次のようにも言っています。

私は責任を果たすことも、果たさないこともできる。私は自由である。しかし、他者の呼びかけを聞いたら、応えるか応えないかの選択を迫られる、責任の内に置かれる、レスポンシビリティの内に置かれる、このことについては私は自由ではないのです。(高橋、前掲書、p27)

「“約束”に拘束される」とか「責任」というのは、約束を守らなければならない、責任を果たさなければならない、という規則や義務のようなものですらない。それが規則や義務であれば、そこにはもはや責任は存在しない。責任とは、呼びかけに(無視も含めてどのようにでも)応えるか応えないかの選択は避けられないということであり、自由が前提とされている。よく責任のない自由はないなどと説教臭いことを言う人がいますが、実際には、自由のない責任などないのであってその逆は不可です。
次に「いっさいの呼びかけに応答することをやめるときには、人は社会に生きることをやめざるをえないし、結局は「人間」として生きることをやめざるをえない」という文言については次のように考えます。
ここでいう呼びかけの例として、引用文に先立つ文章では、選挙ポスター、商品広告、挨拶の言葉、電話、テレビ、新聞などの言葉が挙げられ、「こういった無数の言葉による呼びかけをいっさい受けとらない、聞きたくないとしたら、私たちは社会生活をやめざるをえない。他者と関係をもつことをやめてしまう以外にない」、「すべての人間関係の基礎には言葉による呼びかけと応答の関係がある」(高橋、前掲書p25)と言われています。
高橋が「すべて」とか「いっさい」と書くとき、それは強調のためのレトリックではなく、文字通り「例外なく」という意味で用いられています。
ですから、「人は社会に生きることをやめざるをえないし、結局は「人間」として生きることをやめざるをえない」場合の条件である「いっさいの呼びかけに応答することをやめるとき」とは、耳目に触れるすべての言葉(信号・情報)から自らを完全に遮断した状態が想定されていることになるので、そのような生き方はやはり「社会に生きること」「社会生活」をやめざるをえないことになり、人間とは社会的動物であるといわれるかぎりにおいて「「人間」として生きることをやめざるをえない」とされているのだと思います。
長期に渡って意識不明の状態にある人のケースは別途の考察が必要でしょうが、高橋は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの名文句を引き合いに出して言葉として語られない出来事を黙殺しようとする考え方に再三にわたり異を唱えています(『記憶のエチカ』、『歴史/修正主義』など)。

語りえぬものの神秘主義や蒙昧主義は、ついには語ること自体の放棄に帰着せざるをえないだろう。記憶しなければならない出来事について、語ること自体を放棄することは問題にもなりえず、他方ではしかし、「物語ることの不可能性」を言う無数の証言をも尊重すべきだとするなら、問題はやはり、言説を断ち切りつつ沈黙を破るというあの「二重の歴史的課題」に応えること以外ではありえない。記憶しなければならない出来事があるとき、それの物語りうるものについて物語るべきであることはもちろんである。けれども同時に、ここではまさに物語りえぬものについても語らなければならないのだ。(高橋『記憶のエチカ―戦争・哲学・アウシュヴィッツ』p31)

ですから、仮に一般的な意味での言葉としては語られなかったとしても、そこに呼びかけを聞き取ることをあきらめてはならないはずなのです。高橋が「完全な沈黙を強いられた死者たちの声を聞くことができるだろうか」(前掲書、p137)と問うとき、それは、出来るはずがない、というあきらめではなく、不可能なことへの挑戦を含意している、と私には感じられます。
ところで、高橋は呼びかけ−応答関係について「いろいろと難しい問題」があるとして次のような例を挙げています。

たとえば人間と動物、動物と動物のあいだではどうなっているのか、例えば犬や猫の場合、あるいは犬や猫と人間のあいだにもそういうことが、呼びかけと応答がないのかどうか。あるのではないか。そういう問題もあるのですが、ここでは立ち入りません。(高橋『戦後責任論』p25-26、講談社・単行本)

高橋が立ち入らなかったところにあえて立ち入れば、私は人間と動物のあいだにも、さらにいえば人間と無生物や抽象的存在(観念)のあいだにも、呼びかけ−応答関係は成立すると言わなければならないのではないかと思っています。
以下、少しばかり、高橋の応答責任論から脱線して、私の意見を述べます。
造形作家のなかには作品の素材である石や木材の声を聴いて制作するという人がいます。また、歴史上多くの宗教家が神の声を聴いて回心の体験をしています。「霊」の声が聞こえちゃってうるさくて仕方がないとぼやいている人の話を聴いたこともあります。
それらは感性の豊かすぎる人たちが自分の深層意識の願望や不安を投影したものにすぎないと考えることもできますが、少なくとも当事者の体験のレベルでは、なにか他者なるものが呼びかけてきたように感じられた、ということまでは否定できないと思います。このように呼びかけ−応答関係が成立する上で、呼びかけるものは人間に限られないし、物理的な音声も必要ない場合もあるわけです。
さらにいうと私自身は、生体の反応、暑いとか寒いとか、痛いとか痒いとか、そういう感覚的な反応も呼びかけ−応答の関係で考えられるではないか、とも思っています。感覚的な反応というと、メカニックな感じがして、呼びかけ−応答関係にそぐわないような気もしますが、私たちの身体は外界からのすべての刺激に機械的に反応しているわけではない、当面の生の必要に応じて取捨選択しているわけですから、そこには呼びかけ−応答関係になにがしかは対応する構造があると考えても無理はないと思います。これは突拍子もない意見ではなく、実際、メルロ=ポンティベルクソンの心身関係論(『物質と記憶』)を批評しながら「世界と討議する身体」というようなことを言っています(『身心の合一』朝日出版社p117)。
閑話休題。高橋の応答責任論に戻ります。

責任について

さて、私は高橋の応答責任論における「呼びかけ」について拡大解釈をしてみました。無生物までを持ち出したのは自分でも極論だったと思いますが、高橋自身「無数の言葉による呼びかけ」を挙げているのですから、このような意味で、id:moleskinさんが言うような「ざわめき」、Bマークのコメント欄に記された一言や劇場の観客の示す反応などにも「呼びかけ」の性格を読みとることは、高橋の応答責任論にむしろ近い発想だと私は思います。
けれども、高橋も現実の議論では、のざりんさんの言うように、アウシュビッツの問題とか、「従軍慰安婦」問題とか、「生死を決定するような抑圧構造、差別構造があって、被害側からの告発・訴え・願いに対し、加害側が出るべき態度」http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20051003/p4#seemoreのように語ることがほとんどです(岡真理氏の議論についてはよく存じませんので触れません)。
「無数の言葉による呼びかけ」に応答責任が生じると言いながら、ご本人はすべての呼びかけに応えるわけでもなく、特定のテーマについてのみ集中的に論じているように見えるのはいかがなものか、と茶々を入れたくなるところですが、高橋の文章をよく読んでみると、すべての呼びかけに応えることができると主張しているようには読めません。
当然のことながら、現実には、私たちは「ざわめき」も含めたすべての呼びかけに応えることなど不可能です。しかし、高橋はこの責任の不可能性とでもいうべき事態をけっして無視しているわけではありません。むしろ、応答責任を完全に果たすことなど不可能である、私がデリダ『法の力』の参考書として引っ張り出した高橋『デリダ』のp236-238には、そのことがはっきりと述べられています。全文を引用するのは冗長なので特徴的な部分だけ抜き書きします。
高橋は、自分がこの本(『デリダ』)の原稿を書くことは、出版関係者への責任を果たすことになると同時に、それに専念している間は家族や友人の呼びかけを無視していることになるなどと述べた上で次のように書いています。

私はある他者たちの呼びかけに応えることで、他の他者たちの呼びかけに応えられなくなってしまう。私は他の他者たちを犠牲にせずには、どんな他者への責任を果たすこともできない。いま私が犠牲にしている他者たちへの責任を果たそうとすれば、今度は必然的に、他の他者たちへの責任を犠牲にすることになるだろう。デリダによれば、私はこの犠牲を正当化する(justifier[正義とする])ことはけっしてできない。「私があるもの(ある他者)を他者に優先させたり、あるもの(ある他者)を他者の犠牲にしたりすることはけっして正当化できないだろう」。(高橋『デリダ―脱構築 (現代思想の冒険者たち)』p237)

高橋でなくとも、誰だって仕事に専念しているあいだは、ほかのことになど気にとめてはいられません。電話に出るのも億劫です。その上、こうしている間にもメールが来る。大事な連絡かと思えば「夫とうまくいっていない人妻です。あとくされなく遊んでくれるお友達がほしい」だと?次は「ご損はさせません、必ずあがる株銘柄をご紹介」はぁ?「抜け毛でお悩みの貴方に画期的な治療法を」っていつ俺の頭を見たんだ?どいつもこいつもくだらないものを送り付けやがって、こっちは忙しいんだ!と怒鳴りたくなるようなときもあります(私は多少短気な方かもしれません)。
それにしても、ある他者への責任を果たすこと、ある他者の呼びかけに応えることで、他の他者の呼びかけを無視する、犠牲にすることは必然です。すべてのメールに応えることはできない。私は毎日何十件も読まずに削除しています。すべての呼びかけに応えることは、時間的・経済的・能力的に不可能です。
だから、出来そうなこと、すぐにやらなければならないこと、是非やりたいこと、身近なこと、重要なこと、など、どういう基準によるかは人それぞれでしょうが、なんらかの優先順位をつけて取り組まざるをえない。高橋にとってはそれが宗教と国家をめぐる問題であり、私にとっては納期の目前に迫った仕事と今夜の晩ご飯の献立である、というささやかな違いはあるにしても、何かを犠牲にしてある責任を果たすという構造自体に変わりはない。
私は、腹が減ったという妻の呼びかけに応えることを他のことに優先することによって、甘いものが好きというid:annntonioさんの呼びかけ(今度食べにいきましょ、万世橋竹むら)や、『暴力批判論』の続きを読もうよというid:kurahitoさんの呼びかけ(必ず読みます)を犠牲にしている。それは「けっして正当化できないだろう」。忙しくて時間がないということを言い訳にmoleskinさんやのざりんさんもお待たせしている(それも私の側から問いかけたことなのに!)。そういえば「森さん」という方からも問いかけられていました。
さらに、いかなる犠牲もより上位の目的(例えば国益)によって正当化されうるのだとするならそれは不正であり、そうした不正を見過ごすべきではない、という高橋の呼びかけをも犠牲にして、私は今夜も晩ご飯を作っているのです。そして同じ人間である以上、高橋もまた多くのものを犠牲にしているはずです。
こうしたことは神ならぬ人間であるかぎりどうしようもないではないか、それにいちいち「責任」などといわれてはかなわない、というのがふつうの印象ではないでしょうか。この印象は日常会話で「責任」という言葉を使うときにどこか懲罰的なニュアンスが含まれていることからくるように思われます。

このような意味での責任つまりレスポンシビリティを果たすことは、私たちにとって基本的に「よいこと」だ、といいますか「歓ばしいこと」だ、といえるのではないかということです。こんなことをいいますのは、「責任」という観念が、今日の日本では非常に窮屈なものと受けとられていて、マイナスイメージになっている。たぶんさきほどの罪責ということですね。あのイメージ。罪責としての責任は強制的に負わされることになりますから、それをモデルにして責任というものをイメージしているので、なにか責任というものがもっぱら窮屈で、抑圧的、暴力的で暗いイメージ、マイナスイメージで考えられることが多い気がするのです。たしかに恋人同士がデートの最中に「責任、責任」などといったらいっぺんに興ざめでしょう。百年の恋も冷めてしまう。でも、responsibilityというものを応答可能性と考えるなら、恋愛関係もアピールとレスポンス、呼びかけと応答の連続ともいえないでしょうか。恋愛関係は、応答可能性としての責任の関係の典型的なケースであるともいえるのではないか。(高橋『戦後責任論』講談社・単行本、p29)

私が読んだ限りでは、高橋がデートについて論じているのはこの文章だけです。私は、あまり恋愛経験が豊富な方ではありませんが、夫婦関係においては、どちらかがどちらかの話しかけをさえぎったり、話しかけられても返事を返さなかったりしたことは夫婦ゲンカの前兆であり、そして、夫婦間において罪責の追求や義務の不履行に対する非難が応酬されるときは破局の危険が近いということを経験上から断言しておきます。
それはさておき、高橋が恋愛関係を「応答可能性としての責任の関係の典型的なケース」としていることは注目に値します。これは高橋にとって応答責任が「罪責としての責任」とイコールではないこと、「罪責としての責任も、応答可能性としての責任という観点から解釈することができるかもしれない」以上(高橋、前掲書、p31)、罪責としての責任と対立するとまでは言えないにしても、少なくとも応答責任は罪責とは違うものとして考えられていることを示しています。
だから「このような意味での責任つまりレスポンシビリティを果たすことは、私たちにとって基本的に「よいこと」だ、といいますか「歓ばしいこと」だ」とも言われるのです。
先に引いた文章につづけて高橋は次のように書いています。

他者の呼びかけに応答することは、プラスイメージで、人間関係を新たに作り出す、あるいは維持する、あるいは作り直す行為、そのようにして他者との基本的な信頼関係を確認する行為であると考えられるのではないか。それは他者とのコミュニケーションそのものではないか。ですから、それを原理的に拒否すれば、社会から外に出て、自分だけの沈黙の世界に閉じこもらざるをえなくなります。逆にいいますと、応答可能性としての責任とは、私が自分だけの孤独の世界、絶対的な孤立から脱して、他者との関係に入っていく唯一のあり方だといってもいいのではないか。絶対的な孤独、孤立の中で生きられる人はいないでしよう。そういう孤独の内からある意味では救い出されて、他者との結びつき、あるいは連帯関係に入っていくことができる。それがレスポンシビリティであるなら、それは十分「歓ばしいこと」、「肯定的なこと」ではないでしょうか。(高橋『戦後責任論』講談社・単行本、p29-30)

他者との連帯やコミュニケーションは歓ばしいことである、ここにも高橋の人間観、社会的存在・言語的存在としての人間という人間観が顕著にあらわれています。この人間観自体は独創的なアイデアではなくすでに広く言われてきたことではありますが、その考え方を徹底すると高橋のように考えざるをえなくなる。これに異を唱えられるのは独我論・唯我論の立場だけではないでしょうか。
ただ、私たちは物理的・時間的・経済的な限界があるので、すべての呼びかけに応えるという「歓ばしいこと」を実行することが残念ながらできない。応答責任が十全に果たされるとは、呼びかける声のすべてに対して、一つ一つ個別に応答することですから、不可能なことです。応答責任はつねに不完全なものとしてしか果たされない。この不完全さとどこで折り合いをつけるか、ということですが、これについては現在の私には、高橋『デリダ』を抜き書きした9月28日付の記事以上のことを考える力がないので、そちらをご参照ください。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20050928#1127866758
引用した高橋の文中の「正義」を「応答責任を果たすこと」と置き換えて読んでくださると、だいたい以上に述べてきたことにつながるはずです。
不十分な点やあらぬ誤解もあると思いますが、少し時間をおいてまた考え直したいと思います。

追補

あとはこちらを読んでくれでは、あまりにも尻切れトンボですから、加筆します。
応答責任はつねに不完全なものとしてしか果たされないということについて、高橋は正義という語彙をもって次のようにも言っています。

すべての他者にその特異性において同時に応えることは不可能なのだから、どんな決定も、またどんな人も、どんな制度も、どんな法=権利も、十全に正しい、正義であるということはできない。(高橋『デリダ』、p214)

では、どうしたらいいのか、高橋は応答の優先順位のマニュアルを示してくれるのかというと、そんなことはしてくれない。むしろ、絶対にしない。

責任ある決定は理論的な知識や前提からのたんなる帰結や結果であってはならない−−そうでなければ、その決定は、つねに単一の特異な状況に応えるものではなく、規則やプログラムの適用になってしまう−−のだから、それに先立つ法的、倫理的、政治的、理論的熟慮に対して断絶をもたらすものでなければならないし、したがって、有限な決定以外のものではありえない。それは「どんなに遅くやってくるものであっても構造的に有限」であり、「非知と非規則の夜のなかで」なされうる以外にはないのである。(高橋『デリダ』、p216)

マニュアルに従って返事を返しても、それは応答責任を果たしたことにはならないのです。
けれども、マニュアルではないけれども手がかりはあります。

問題は、法創設行為の反復を差異を含んだ反復として、しかも「際限なく正義の方へ向かっていく」差異を含んだ反復として実践していくことだろう。それはすなわち、みずからの(言語)行為の暴力性を可能なかぎり縮減しつつ、新たな決定=解釈の瞬間に、「決定不可能なものの経験における決定」のためのチャンスを、いいかえれば、特異な他者たちの呼びかけに普遍的に応えるというアポリアの経験からの決定のチャンスを見いだすことにほかならない。(高橋『デリダ』、p212)

この文は、高橋の応答責任の考え方からすれば、出血大サービスというか、反則ギリギリのところという感じが私にはします。
「「際限なく正義の方へ向かっていく」差異を含んだ反復として実践していくこと」
「みずからの(言語)行為の暴力性を可能なかぎり縮減しつつ、新たな決定=解釈の瞬間に、「決定不可能なものの経験における決定」のためのチャンスを、いいかえれば、特異な他者たちの呼びかけに普遍的に応えるというアポリアの経験からの決定のチャンスを見いだすこと」
この抽象的な表現が具体的に何を指しているかは、各人が各人の生活の現場で考えるしかない、これ以上語れば、ああせいこーせいと指図し使役することになってしまう。人に指図され使役されることはその人から自由を、そして責任を奪うことになりますから、結局、人それぞれが、できる範囲でいちばん犠牲を少なくする道を選ぶことという以上のことは言えないのではないでしょうか。