『論語』『史記』管仲は仁者に非ざるか

論語』で、管仲の仁についての問答のある編は「憲問」という。憲を問うのかと思ったら、憲が問う、で、憲とは人名だった。そんなことも知らなかったのか、と嗤われそうなことも知らないで読んでいる。

憲、恥を問う。子の曰わく、邦に道あれば穀す。邦に道なきに穀するは、恥なり。(p269)

注を見ると孔子の高弟、子思(『中庸』の作者)のことだという。子思はあざなで、姓は原、名は憲、なのだそうだ。原憲(はら・けん)という人がいたような気がするが誰だったっけ。
この原憲が、つづけて仁を問うている。

「勝ち気や自慢や怨みや欲望がおさえられれば、仁といえましょうね。」先生はいわれた。むつかしいことだといえようが、仁となるとわたしには分からないよ。」(p270)

分からないものを説くな、と言いたいところだが、否定によって暗示するのは古代の賢人の常套手段なので、ここでちょっと立ち止まる。
「仁は則ち吾れ知らざるなり」
ともかく、仁とは単なる克己心ではないらしい。だが、その積極的内容はここでは語られない。『論語』中、「仁」について語られているところを羅列してみれば、あるいは孔子の説く仁の内容がかたちになるかもしれないが、それはすでに専門家によってなされていることでもあろうし、また、今の私の関心はそこにはない。
私の関心は、管仲という一人の政治家についての孔子の評価にある。
孔子は、管仲を評して「管氏にして礼を知らば、孰か礼を知らざらん。」(p65)と手厳しく批判した。しかし、一方で次のように、高く評価しもしている。

子路がいった、「桓公が公子の糾を殺したとき、召忽は殉死しましたが管仲は死にませんで〔仇の桓公に仕えま〕した。」「仁ではないでしょうね。」というと、先生はいわれた、「桓公が諸侯を会合したとき武力を用いなかったのは、管仲のおかげだ。〔殉死をしなかったのは小さいことで〕だれがその仁に及ぼうか。だれがその仁に及ぼうか。」(p280-281)

同じような質問を子貢もした。

子貢がいった。「管仲は仁の人ではないでしょうね。桓公が公子の糾を殺したときに、殉死もできないで、さらに〔仇の〕桓公を補佐しました。」先生はいわれた、「管仲桓公を補佐して諸侯の旗がしらにならせ、天下をととのえ正した。人民は今日までもそのおかげをこうむっている。管仲がいなければ、わたしたちは散ばら髪で襟を左まえにし〔た野蛮な風俗になっ〕ていたろう。とるにたりない男女が義理だてをして首つり自殺でみぞに捨てられ、だれにも気づかれないで終わるというのと、〔管仲ほどの人が〕どうして同じにできようか。」(p282)

子路も子貢も、管仲が殉死をしなかったことをもって、「未だ仁ならざるか」「仁者に非ざるか」と、同意を求めるような聞き方をしている。孔子ならばきっと、そうだ、管仲は仁者に非ず、と答えるだろう、という予想があったのではないか。ところが孔子は、おそらくは彼らの予想に反して、いや、管仲は仁者だ、と応えている。
つまり、孔子管仲を、礼儀知らずだが仁者、と考えていたわけだ。だとすると、仁も礼も、その内容については私にはいまだに見当がつかないが、両者の関係についてであれば、管仲という人物を通して手がかりがつかめるのではないか、という気がする。また、礼儀知らずといっても、その礼儀とは私たちがふつうに思う礼儀とは違うようだし、仁もまた教科書にあるような「思いやり」といった個人道徳のレベルで言われていることではない。ここにも考えるべきところがあるように思う。