日本愚民化促進委員会案三、四、五、六条文案の検討

教育基本法改悪についてannntonioさんから警戒警報が発令されている。
http://d.hatena.ne.jp/annntonio/20060411
なお、愚民化促進委員会案と現行の教育基本法との対比表をchikiさんが作ってくだすった。
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060410/p2
これはたいへん便利なもので、これさえ見れば、私ごとき素人が駄弁を連ねる必要もないような気もするが、annntonioさんのご指示とあらばやむをえまい。風邪も治りきっていないので、いつもにも増して無知と浅慮と偏見を丸出しだが、出来の悪い作文を添削することにする。

火を使わない焚書

順序は前後するが、先に第四条案について。

第四条(生涯学習
一 国及び地方公共団体は、国民が生涯にわたってあまねく学習の機会を得ることが出来るよう、教育機会の整備拡充に努めるものとする。

生涯学習の権利主体は、国民に限定される。その国民も恣意的に定義された「日本人」像によって序列化されるであろうことは先に見た通り。
現行法の社会教育について定めた第7条との最も大きな違いは、図書館、博物館、公民館などのいわゆる社会教育施設についてばっさりカットされていることであろう。
折しも、国立国会図書館の独立法人化が取り沙汰されているという。国立国会図書館と言えば、けっして単なる国会の図書室なんかではない。全国の公立図書館の総本山であり、国立中央図書館ともいうべき施設である。その本来の使命は一国の文化のアカシック・レコードたるべく、可能なかぎりすべての書籍を収集・保存・記録し、利用者の閲覧に供することである。
この崇高なる使命を負った図書館ですら独立法人化、つまりは民営化されるかもしれないということは、ふだん利用している自治体の図書館・図書室も管理運営が民間委託されるかもしれない、という不安はけっして杞憂ではないということだ。
教師でもなければ、子どももいない私がこの教育基本法改悪に危機感をおぼえるもっとも身近で実利的な理由がこれである。公共図書館が民営化されたらどうなるか、いまより便利なる?お笑いぐさだ。登録・利用の有料化、利用者資格の制限、そして何よりも蔵書の貧困化が予想される。悪循環はめぐりめぐって日本の出版文化の衰退を招くだろう。
これは火を使わない焚書である。本好きにとっては悪夢のような社会が教育基本法改悪によって生み出される不安がある。

教育の機会不均等

三、五、六は、教育の機会不均等を推進する重要な案文なので、まとめて扱う。

第三条(教育の機会均等)
一 すべて国民は、その能力に応じてひとしく教育の機会が与えられ、人種、信条、性別、身体上若しくは精神上の障害又は社会的身分によって、教育上差別されない。
二 国及び地方公共団体は、意欲と能力があるにもかかわらず、経済的理由によって就学困難な者への奨学の方法を講じなければならない。

能力主義は現行法にもある問題点だが、第五条(家庭教育)、第六条(幼児教育)、とあわせて考えるととんでもないことになる。
その前に、機会均等の理念が現行法より後退していることを見ておく。
現行法では、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」となっている。
改悪案の「すべて国民は、その能力に応じてひとしく教育の機会が与えられ」と似ているが、能力に応ずる教育の機会が与えられるのと能力に応じて教育の機会が与えられるのとでは、意味が違う。
現行法の「ひとしく、その能力に応ずる」は、誰でも能力に応じた教育の機会が与えられる、という意味であるのに対して、改悪案の「その能力に応じてひとしく」は、教育の機会を与えられるのは能力に応じてである、という意味である。
つまり、能力主義は、現行法では教育内容にかかっているのに対して、改悪案では教育の機会にかかっている。これで機会均等とはちゃんちゃらおかしい。
さて、第五条(家庭教育) は次のようにしたいらしい。

一 教育の原点は家庭にあり、親は人生最初の教師であることを自覚し、自らが保護する子供を教育する第一義的責任を有する。
二 国及び地方公共団体は、家族の絆を育成及び強化し、家庭教育の充実を図るため適切な支援を行う責務を有する。

家庭教育は公私の私の領域であって、法律で説教してどうするというものではないだろう。余計なお節介である。しかも、いったん法によって責任を課した以上、すべての家庭教育は国民教育の側面をもつことにならないか。家庭教育もまた国民教育の一環であり、親が子どもにとっての「人生最初の教師」たる責任があるというならばどうなるか。
それを考える前に第六条案を見てみる。

第六条(幼児教育)
一 幼児教育が生涯にわたる人間形成の基礎となる重要性にかんがみ、国及び地方公共団体は、その振興に努めるものとする。
二 国は、幼児の心身ともに健やかな発育を期し、幼児教育の大綱的基準を定める。
三 幼児教育は、家庭との緊密な連携を図り、これを助け、かつ補完するものでなければならない。

幼稚園教育要領の法的根拠を得たいがためでもあろうが、これによって幼児教育も国民教育のなかに位置づけられる。しかも「家庭との緊密な連携を図り」とある。これによって幼児期の家庭教育も国民教育の体系に組み込まれることになる。
さて、ここで第三条をふりかえってみる。引っかかるのは機会均等に付けられた「能力に応じてひとしく」という条件である。能力というのは育ててみてはじめてわかるものではないだろうか?
赤ん坊のうちから、この子には高い能力があるとか、何々に向いた資質がある、適性があるなどというのは、ふつう親バカというのである。それなのになぜ教育の機会提供に「能力に応じて」という注文がつくのか。
十で神童も二十過ぎればただの人ともいうし、大器晩成ともいう。まれに鳶が鷹を生むこともあるが、それはまれなことの喩えであって、天才の誕生に期待して手をこまねいていればよいなら教育に仕事はない。
ところが、この法案をつくった人の教育観・能力観は違うらしい。
第一条案では「教育の目的は、各個人に内在する可能性と価値を開花させ」となっていた。ロマン主義的で聞こえのよい文言であるが、これは能力や資質はあらかじめ各人に具わっているものでしかない、といっているのに等しい。
しかも、その目的も第二条案では「国民は、ひとしく教育の目的達成に努めるものとする」と国民自身の自己責任に帰せられるものとされていた。開花はさせますが、どんな花が咲くのかはその人次第、結果には責任を負いかねます、と言っているのである。
しかし、自己責任・自助努力と言われても、現実問題として、幼児・児童のうちはムリだろう。それができたら教育など要らない。
それでは、その責任を負うのは誰か?
第五条案に書いてある。「親は人生最初の教師であることを自覚し、自らが保護する子供を教育する第一義的責任を有する」。
これは、その子に能力があるかないか、またその適性や資質は、幼児(幼稚園)教育の段階、遅くとも小学校教育の段階で見極めさせてもらいますのでその責任は親が負ってください、というように私には読めるのだが、どうだろうか。
仮に能力の育成という観点からみてもこれで教育の実があがるかどうか、疑問である。これは結果として、諸個人の努力よりも、どのような親のもとに生まれ、どのような家庭環境で幼児期を過ごしたか、が重視されることになるからである。一種の優生思想、社会進化論の変形であることは明らかだ。いや、思想とか論とかいうものではなく、間引きというべきかもしれない。
本人の努力に対する評価が、相対的であるにしろ、軽視されるような社会は、やがて階層が固定化されてダイナミズムを失い、沈滞するだろうことは確実だ。没落の徴候はまず第一に経済の領域に現れるだろう。はたしてそれでよいのだろうか。
ましてや、これでは機会均等という理念は画に描いた餅となる。いや、それならまだしもその画の餅がいかにも不味そうである。
出来の悪い作文をひねるヒマがあったら、現行法の理念を十分に実現する努力をまずは行うべきではないのか。こんなバカげた議論につきあっている人の気が知れない。
法華経に「一地の所生、一雨の所潤なりと雖も、而も諸の草木各差別あり」という(薬草喩品)。これは裏返せば、草も木もさまざまな種類があり、それぞれに生い茂るが、それらを育む大地と雨の恵は平等であることをいうのだろう。教育もかくありたいものである。