パトチカ3

三たび、フッサール『危機』より。

われわれが、人格の内奥に使命感をもつ哲学者として、真実に生きることに対してもっている全人格的な責任は、同時に人類の真の存在に対する責任をも内包している。(フッサール、p41)

この文章の前でフッサールは、「われわれは誠実な哲学者たるかぎり、おのれがこの課題のために召命されている」、哲学者は「人類の公僕」である、とも言っている。強烈な使命感だ。
そういうことは読むことによってわかったからよいのだけれども、私が困っているのは、「責任」ということがどういうことなのだか、使命や義務とどう違うのだか、わからなくなった、というより、もともとわかっていなかったことに気づいたというべきか、ともかく、わからないので困っている。「責任」ってなんだ?
悩んでいても仕方がないので、使命と、義務と、責任との異同は今しばらくは棚上げにしておくが、少なくともパトチカの言う「責任」とはなにかについての見通しがなければ、この本を読み続けるのはつらいことになるだろう。
さて、フッサールは、この責任には「逃げ道がない」とも言っており、パトチカの言う「真正・責任/逃避の次元」で考えていることがわかる。というより、パトチカが恩師の哲学的遺言とも言うべき『危機』を前提にして議論しているわけだ。
ここでパトチカは、責任を真正と並置し、逃避と対立させている。とりあえず、責任とは、誤魔化さないこと、逃げ出さないこと、なのだろう。それは、フッサールの言葉によって補完しておけば、「人類の真の存在」に対して誤魔化さず、「真実に生きること」という課題から逃げ出さないこと、ということになるのだろうか。
この「真正・責任/逃避の次元」とは別のものとして「神聖/世俗の次元」があると、パトチカは言う。そして、それは「逃避とは別の方法によって責任と関係づけられなければならない」とすると、「責任」には二つのレベルが生じることになる。一つは、逃避との関係によってひとつの次元を構成する責任、もう一つは、「真正・責任/逃避の次元」とは別の次元である「神聖/世俗の次元」そのものと関係づけられる責任。
この責任と比べると、「神聖/世俗の次元」の方がよほどわかりやすい。パトチカは、デュルケム『宗教生活の原初形態』を引いており、人類学的知見をベースにして語っていることは明らかである。
世俗的なもの、日常性に対立して一つの次元を構成する神聖さ、聖なる領域は、「魔的でオルギア的な次元」とも言いかえられる。「エロティックなもの、性的なもの、魔的なもの、聖なる恐れ」…。それは「責任自体が見出されなかったり顧慮されなかったりする所、責任から逃避する所で単純に消えはせず、それどころかそれは切迫したものになる。」(p162)

魔的なものは、元来はそれと関係のない責任と関係づけられねばならない。魔的なものが魔的なのはまさに、それが自己疎外を深めうることによるが、他方ではそれは自己疎外に気づかせる。即ち、人間が自己を疎外するのは、生活とその事物に縛られ、その中で自分を見失うことによるということである。忘我はこの奉仕からの忘我であるが、しかしながら依然としてまだ自由ではない。忘我は自由を詐称しうるし、時として詐称する。−−このオルギア的な神聖さの凌駕という観点から、まさにそれは魔的なものとして見られる。(パトチカ、p163-p164)

「魔的なものが魔的なのはまさに、それが自己疎外を深めうることによるが、他方ではそれは自己疎外に気づかせる。」とか、「忘我は自由を詐称しうるし、時として詐称する。」なんて、うまいことを言うなあ、と思ったりはするが、ここに「責任」という言葉が入ってくると、とたんにわからなくなる。
そもそも、「魔的なものは、元来はそれと関係のない責任と関係づけられねばならない」という要請はどこから来るのだろう?
ああ、そうか、これは自己疎外が問題にされている文章だった。
パトチカは、「自らの存在の性格によって人間的でないものに耽る生に至る社会」、「一見十全で豊かなところでそれ自体を麻痺させる生とは、どのようなものであろうか?」という問いに答えようとしているのであった。そのために、「人間の生の現実」を自ら担い、その現実を見る眼差しに自らをさらす責任を持つような、歴史的な主観性を確立しようとしていた。
そして、「神聖/世俗の次元」、「魔的でオルギア的な次元」が責任と関係づけられないままであれば、自己疎外については語れない。そうだとすれば、責任とは、自分自身であることなのか。
自分の頭の悪さを疲労のせいにはしたくはないが、休日出勤でくたびれたので今夜はここまでにしとうございます。