『死を与える』はどうか

昨日の記事http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20081202/1228219437に、『死を与える』はどうか、というご指摘をいただきました。
死を与える (ちくま学芸文庫)』においてデリダは、キルケゴールによる「旧約聖書」イサク奉献の解釈を読み解きながら次のように付け加えています。アブラハムが息子イサクを神に捧げようとした場所は、現在のエルサレムです。そしてこの場所をめぐって「三つの一神教は互いに争っている」。

三つの一神教はずっと前から、そして現在はかつてないほどまでに争い合って、戦火と流血の場を作りだしている。それぞれがこの場を自由にすることを要求し、メシア主義とイサクの犠牲のオリジナルな歴史的・政治的解釈を求めている。イサクの犠牲の読解と解釈の伝統は、それ自体血にまみれた犠牲、焼き尽くす献げ物(ホロコースト)の犠牲となっているのだ。イサクの犠牲は毎日のように続いている。惜しみなく死を与える兵器が、前線なき戦争を仕掛けている。責任と無責任のあいだに前線はなく、ひとつの犠牲をめぐるさまざまな横領〔=固有化〕のあいだにこそ前線があるのだ。それはさまざまな責任の次元、他のさまざまの次元のあいだの前線でもある。すなわち宗教的なものと倫理的なもの、宗教的なものと政治=倫理的なもの、秘密のものと公的なもの、俗と聖、特異=単独的なものと総称的=属的なもの、人間的なものと非人間的なものとの前線でもあるのだ。(p146)

この文章を解釈することは、キルケゴール宗教哲学はもちろんのこと、パトチカの戦争論やシュミットの政治哲学を背景にしてのことなので、呆け中年の手には余ります。
ただし、これはtaeshiさんからいただいた次のようなコメントにも一致するか、少なくとも似たようなニュアンスを持つだろうことは言えると思います。

中期「グラ」には要約すると
「おいおい、昨日ジュネから電話がかかってきて、
いまパレスチナにいる、だとよ、まいったぜ、自分を
鋭く問われて困ったぜ」

ってな文がありました。

ということで、この本にもホロコースト容認はないだろうと思います。ホロコーストされているパレスティナ人そしてヨーロッパに基本、思いをはせて書いているわけですわけですから。

今日は忙しいので、簡単なご報告まで(まだ賞金をあきらめたわけではありません。toledさん、首を洗って、いやもとい、通帳を確認してお待ちくださいませよ)。