天下皆知美之爲美。斯惡已。

老子』第二章の次の文を読んでいた。

天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。

天下みな美(び)の美たるを知る。これ悪(あく)なり。みな善(ぜん)の善たるを知る。これ不善(ふぜん)なり。故(ゆえ)に有無(うむ)相(あい)生じ、難易(なんい)相成り、長短相形(けい)し、高下(こうげ)相傾き、音声相和し、前後相随(したが)う。ここをもって聖人は、無為の事に処(お)り、不言(ふげん)の教(おしえ)を行なう。万物作(おこ)りて辞(じ)せず、生じて有せず、為して恃(たの)まず、功成りて居(お)らず。それただ居(お)らず、ここをもって去らず。

初めは、「有無相生じ、難易相成り、長短相形し、高下相傾き、音声相和し、前後相随う。」とあるところから、反対概念が同時に成立するということを言っているかと思った。右かあれば左があり、東があれば西があるように。そうすると「天下みな美の美たるを知る。これ悪なり。」の「悪」は、道徳的な善悪ではなく、美醜の「醜」の意味かと思った。
けれども、それだけならば「ここをもって聖人は、無為の事に処り、不言の教を行なう。」というのがよくわからなくなる。
あれこれ他の章句も読み返した挙げ句、これは結局、「大道廃れて、仁義あり。云々」(十八章)などと同趣旨で、儒家のように何かの徳を積極的に肯定することはかえってその反対物を生み出すし、場合によっては強調された徳がそのまま不徳に転ずることもある、そういうことを言っているのではないか、とも思われてきた。
だからこそ「万物作りて辞せず」というのではないか。