不穏な注

いま読んでいるレーヴィット共同存在の現象学 (岩波文庫)』で不穏な気配のする箇所に行き当たったのでメモしておく。「人間の「自律」のカントによる基礎づけ」を論じた第39節である。
レーヴィットはカントの有名な定言命法、つまり、人間を単なる手段としてでなく目的として扱え、について、そこに「人間は「人格」であると同時に「物件」」であるという両義性を見てとる。だから、人間が物件として使用される場合は当然ある。むしろ、現実には、人間を純粋に目的としてだけ扱うことの方が至難の業なのであって、愛や尊敬と言われているような関係においても、なにがしか手段として使用する要素が紛れ込んでくるのが通常であるように思う。もちろん、こうしたことはカントは当然踏まえて議論している(レーヴィットはそれを整理している)。
その上で、次のように自殺についてのカントの見解を紹介している。

さらに極端な場合は、ひと自身が自殺するケースである。なぜならその場合、ひとは処理可能な物件(つまり目的に対する手段)とおなじように、全体としてのじぶんを処置するからである。人間の身体はまさにたんなる物件ではなく、人間の人格的な身体であるがゆえに、である。だから、身体の部分的あるいは全体的な否定は部分的ないし全体的自己否定なのである。(レーヴィット、p322)

引用した文にはレーヴィット自身による注がついていて、カントが「自殺が原理的に非道徳な、つまり人間存在の意味に背反する行為であることを論証しようと努力」したことを述べた上で、次のように指摘する。

そこで語られているのは、現存が「神」から私たちに「委託されたもの」であるとする信仰であるが、そうした信仰を欠けば、自殺に対していかななる審級ももち出すことはできない。そればかりか、理念からして自殺は、じぶん自身に発する、じぶん自身に対しての、極度の道徳的自由であることになる。自殺をする者はまさに、一定の目的のために、たんに身体的にじぶんを犠牲にするばかりではない。じぶんを完全に(totaliter)否定するのだから、その者はもはや、じぶんを目的に対するたんなる「手段」としてすら使用していないのだ。だから、人間が自殺することでじぶん自身を処理することができるようには、物件についてはまさに処理しえないことになる。自殺とはむしろ、存在することでただちに(eo ipso)存在すべきことにはいまだならない−−この点で自然的な生物とはことなる−−生物として、自己自身を意識するにいたった人間が有する、一箇の格別な可能性なのである。(レーヴィット、p323)

この注は、人格(自己目的)と物件(手段)という人間の両義性についてのカントの学説を祖述する本文を脅かしてはいないだろうか。

「その者はもはや、じぶんを目的に対するたんなる「手段」としてすら使用していないのだ。だから、人間が自殺することでじぶん自身を処理することができるようには、物件についてはまさに処理しえないことになる。

カントの定言命法は、(別の目的のために)手段として使用すること、自己目的を持つものとして遇すること、これら二つの関係を想定し、私たちの人間関係は通常、相手を、相手自身が持っている目的ではない別の目的(私の目的)のための手段として使用しているが、単に手段として使用するだけではなく自己目的を持つ人格としても遇せよ、と命じているわけだが、自殺という行為は「じぶんを目的に対するたんなる「手段」としてすら使用していない」。
殺人はそうではない。利害のために、理念のために、腹いせのために、口減らしのためになどなどの目的のための手段として相手を使用する行為であって、他人の人格をも物件のように処理するものである。ところが自殺は、自分の人格を物件のように処理することではない(もっとも切腹のように家門の存続とか名誉の維持とか罪の償いなどの目的のために自殺する場合はどうかということもあるが、ここでは棚上げにしておく)。
自殺するようには物件を処理できないということは、自殺という行為には、対象(この場合は「自己」)に対して、単なる手段として使用することでも、人格として遇するのでも、その両者の混合でもない、それらとは別の関係の仕方が含まれているということにならないか。
つまり、自殺という行為には、カント倫理学の想定外の要素があるというわけだ。
なにやら不穏な気配のする注だと感じた。