落語の皿屋敷

かつて『死霊解脱物語聞書―江戸怪談を読む』、『実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む』をお手伝いした版元から、シリーズの総仕上げということで『皿屋敷』が刊行されました。
今回は事実上の監修者である横山泰子先生のほか、国文学や民俗学の気鋭の研究者の方々が加わって、本格的な入門書になったのではないかと思います。
私は今回は楽をさせていただいて、番町皿屋敷を扱った第一章と、各地の伝説を扱った第三章に寄稿させていただきました。

皿屋敷―幽霊お菊と皿と井戸(江戸怪談を読む)

皿屋敷―幽霊お菊と皿と井戸(江戸怪談を読む)

同好の士向けの宣伝としては、従来の皿屋敷本の定番、故・伊藤篤先生の名著『日本の皿屋敷伝説』(海鳥社)にも出てこない情報、姫路に伝わる播州皿屋敷の新史料や、秋田県の伝説などが盛り込まれたことは特筆すべき点です。また、伊藤先生が伝説の源流をたどる方向で考えられていたこととは逆に、各地の類似の伝説はもちろん、浄瑠璃や歌舞伎などの芸能や文芸、現代の都市伝説など、伝説の変奏・影響に重点を置いたことも本書の特徴となりうるでしょう。
…。
とはいえ、あれもこれも盛り込むと焦点がぼけるとの版元の意向から、非情にも私の担当箇所より、ばっさりカットされた原稿もありますので、以下、それを掲載します。題して「落語の皿屋敷」。

落語の皿屋敷

「何にも知らん奴やなあ、お前ら。芝居や浄瑠璃見たことないのんかい。播州皿屋敷というたら有名なもんや。この城下をちィーと西へはずれたところに、大きな井戸のある古い屋敷跡があろがな」
「へえェ。おやっさん、あら、車屋敷」
「そうじゃ。土地の人間は車屋敷と言うてるが、皿屋敷とはあれのこっちゃ」
桂米朝上方落語 桂米朝コレクション〈2〉奇想天外 (ちくま文庫)』より)

 これは、上方落語の名人、桂米朝による落語「皿屋敷」の一場面。
 皿屋敷の解説を始めたのは播州姫路(兵庫県姫路市)の城下町に住む六兵衛、ご町内の若い者からは「裏のおやっさん」と呼ばれている物知りです。姫路で生まれ育ちながら、地元の皿屋敷の話を知らなかったばかりに旅先で恥をかいて戻ってきた若い者に、播州皿屋敷の説明をはじめる場面です。
 東京の寄席に足を運ぶ落語ファンなら、春風亭小朝が「お菊の皿」と題してほとんど同じ咄を演じるのを聞いたことのある方もおられるでしょう。東京の落語家は、舞台を江戸番町(東京都千代田区)に移して演じますが、もとは上方落語の演目であったようです。
 本書のテーマ、「皿屋敷」は、播州や番町だけでなく日本各地に類似の伝説が伝わり、その物語は、落語のなかで六兵衛が言うように、歌舞伎芝居や人形浄瑠璃にもなって広く知られていました。その一つ一つを見ていくと、時代設定、登場人物、ストーリーなどが少しずつ(場合によっては大きく)違っていて、ここが皿屋敷の跡地というところもたくさんあります。そういうわけで、これこそが正しい皿屋敷の物語だとお示しすることができません。
 けれども、大まかにこんな感じの話という程度のことはおさえておきませんと、話がここから先に進まないので、便宜上、上方落語皿屋敷」のなかで語られる播州皿屋敷の筋書きをご紹介します。これは、いわば劇中劇とでもいった趣向ですが、標準的な皿屋敷伝説のストーリーを知るのに好都合ですから、しばらく桂米朝の名調子を追ってみましょう。

「よっぽど昔の話やがな、姫路の代官で青山鉄山ちゅうのが居ったんや。そこにお菊という腰元、これがなかなかの別嬪や。鉄山このお菊に思いを寄せて、手を変え品を変え、さまざまにくどいたが、どうしても言うことを聞かん」

 青山鉄山は「播州皿屋敷」の悪役の名として定着しています。架空の人物ですが、今でも姫路市内に青山という地名が残っており、あるいはそのあたりを本拠とする豪族がモデルだったのかもしれません。
 鉄山に言い寄られる腰元のお菊は本編のヒロインです。腰元というのは上級武士の屋敷に勤める女性のことですが、各地の伝説には、ただの女中や下女といって台所の下働きの女性という設定の話もあります。勤め先も武士の屋敷とは限らず、長者、名主・庄屋などの場合もありますが、いずれにせよ富や権力のある人の家です。名前もお菊に限ったものではなく、お花、お藤などの場合もありますが、別嬪、つまり美人であったことになっています。
 さて、お菊が鉄山をふったのは、三平という夫がいたからだとされています。浄瑠璃播州皿屋鋪』では、細川家の家臣舟瀬三平武経(ふなせさんぺいたけつね)、別の文献(『村翁夜話』)では加賀前田家の家臣寺本三平などとされていますが、福岡県嘉麻市の伝説では、ただの三平で、夫ではなく婚約者という設定。いずれにせよ、この人の正体もわかりません。
 美人のお菊にあっさりふられた青山鉄山は可愛さ余って憎さ百倍…。

「何とかしてこのお菊を苦しめてやろうというので、家に伝わる葵の皿という十枚一組の宝物がある。これをお菊に預けた。これは身共が先祖から伝わる将軍家より拝領の家の宝じゃ、万一のことがある場合は鉄山身に替えてでも申しわけをせねば相成らん。これをその方に預ける、必ず粗相のないように……。お菊もびっくりしたで。何でそのような宝物を女中風情の私にと思うたが、主命は黙し難し、かしこまりましたとお受けをして自分の部屋に直しておいた。鉄山、お菊のおらん留守をねろうて、この皿を一枚抜き取って隠したんじゃ」

 「将軍家より拝領の家の宝」が「葵の皿」というところから、葵は徳川将軍家の家紋ですから、この落語が江戸時代を想定していることがわかります。ただし、江戸時代につくられた浄瑠璃などでは室町時代に設定されています。これは要するに「今よりも昔」ということです。
 さて、十枚あった皿が一枚足りなくなるのは、ひそかに抜き取られていたからでした。お菊が過って割ってしまった、失くしてしまったという設定の皿屋敷物語もありますが、「播州皿屋敷」では落語でも浄瑠璃でも悪人の陰謀ということになっています。
 なお、引用文中「直しておいた」とあるのは、しまっておいた、片づけておいた、の意味で、西日本ではよくつかわれる表現です。

「そうしておいて、こりゃ菊。この間お前に預けた皿、急に入り要じゃ、これへ持ってこい、数改めて受取ろう。何にも知らんお菊さん、かしこまりましたと直したまま出してきて数えてみると、それ、一枚足ろまいがな」

 鉄山が一枚隠してしまっているので、当然足りません。お菊は一枚、二枚、三枚、四枚…と皿を数え直してみますが、十枚あったはずの皿が、何度数えても九枚しかない。鉄山は菊が盗んだものと決めつけて、これを口実に菊を拷問します。

「こりゃ菊、その方はこの青山の家にたたりをなさんとして、皿をかすめ取ったに相違あるまい。さあ皿は誰に頼まれて、どこに隠したまっすぐに白状せえ。……もとより覚えがない、知らぬ存ぜぬの一点ばり。おのれ強情な女め、この上は痛いめを見せても白状さしてみせる、こっちへ来い。髪の毛をつかんで、ズルズルズルッと、井戸端へ引っ張ってきた。荒縄でぐるぐる巻きにくくりつけると、頭からザブッ、ザブッーと、水を浴びせかけて、踏む、蹴る、なぐるの責め折檻。あまつさえ余った縄の端を井戸の繰巻にくくりつけて、こう井戸の中へ吊るし、上げたり下げたり……。太い弓の折れを持ってきて、ピシーッ、ピシーッ。ヒィー、たとえこの身は責め殺されても、さらさら命は惜しみませぬが、盗みの汚名が悲しゅうございます。どうぞもう一度皿の数を改めさせてくだされと言うやつを、耳にもかけず、不届きな女、家中への見せしめ成敗いたす。長いやつをズラッー、肩先からザックリ」

 菊を日本刀で袈裟掛けに斬り殺して、その遺体は井戸に捨てた鉄山は、酒を飲んで眠ってしまいます。この場面について桂米朝は「演出としては前半の殺し場をせいぜい物々しく丁寧にやっておくことが大切で、すべて怪談というものは殺されるまでのいきさつをこまかく語って、ほんにこれなら迷って出てくるのも無理はないと思わせることが必要です」と言っていますが、各地の伝説のなかにはムカデ責めだの蛇責めだのと惨たらしい拷問があったと語るものもあります。
 さて、いよいよお菊の復讐が始まります。

「夜が次第に更けて、丑三というころおいになると、お菊の沈んだ井戸から、青い陰火が一つボー、火の玉のような尾を引いて、鉄山の寝ておった屋形の棟へ飛んだ。寝てた鉄山、胸元を締めつけられるような苦しみに、思わずフッと目を開くと、枕元にお菊の姿。おのれ迷うてうせたな、枕刀を抜くよりスパーッと切りつけると、影も形もない。……気の迷いであったか。……下腹が痛い。厠へまいろうと鉄山、便所の戸を開けると、中にお菊の姿。おどろいて戻ってくる廊下の隅にお菊の姿。さすがの鉄山、半狂乱になって狂い死にに死んでしもうた」

 以上が、上方落語皿屋敷」のなかで語られる「播州皿屋敷」のあらすじです。
 皿屋敷の物語をご存知の方なら、お菊の幽霊と言えば、井戸端で一枚、二枚、三枚…と皿を数えて、九枚目を数えたあとに「一枚足りぬ、悲しや」と言うものではないかと思われるでしょうが、落語「皿屋敷」ではお菊の皿数えはこのあとのオチにかかわってくるためか、ここでは、お菊は皿を数えません。そのかわり、姫路に伝わる、お菊の亡霊の化身だとされる虫、お菊虫の話で六兵衛の物語は終わります。
 お菊虫は、関西では知られていますが、関東ではなじみがないため、東京の寄席で演じられる際にはカットされるようです。米朝によれば、「昔は城の周辺や市内の木の茂ったところではよく捕れたものです。私は姫路で育ちましたからよく知っていますが、何かの昆虫の脱けがらで木の小枝にぶら下がっており、お守りになるとかで、城の売店などで売っていたものです。今は環境の変化で見なくなってしまったとか…」(桂米朝、前掲書)、とのことです。
 さて、落語ではこのあと、今でも皿屋敷跡の古井戸には夜毎お菊の亡霊があらわれて、一枚、二枚、三枚…と皿の数を数えているという話を聞いた若い者たちが肝試しに出かけて…と続くのですが、その顛末はまたのちほどお話しすることにいたしましょう。
 この噺は「もとはほんの小咄ですが、それに前半をくっつけていささか大きな話になっています」(桂米朝)とのことです。抜粋したのはその前半からで、米朝のいう後からつけたされた部分にあたります。
 これは、かつては広く知られていた播州皿屋敷の物語も、この落語が今のかたちになったころには、よく知らない人も増えてきたからでしょう。お菊の亡霊が九枚まで皿を数える理由を聴衆がのみこんでいないと、この落語のオチの面白さがうまく伝わらない。そこで、浄瑠璃や講談の演目「播州皿屋敷」のあらすじを六兵衛に語らせたということだろうと思います。