死者を冒涜するいくつかの方法3

非業の死を遂げた死霊を御霊と呼び、御霊を祀りその祟りを鎮めようとする信仰を御霊信仰と呼ぶ。

慰霊の対象となっているのは、非業の死を遂げた人たちである。その人たちへの「ある種の思い」が「霊を慰める」という行為に駆り立てる。この「ある種の思い」とは「後ろめたさ」といってもいいだろう。この語は『大言海』によれば、「うしろべたし」(後方痛し)の転じたもので、「背後に気配を感じること」であるという。
何を感じるというのだろうか。ここではいうまでもなく、亡くなった人の気配あるいは眼差しである。(小松和彦『神なき時代の民俗学』、p111)

神なき時代の民俗学

神なき時代の民俗学

かつて夭折した在野の民俗学者、田中丸勝彦はこの御霊信仰を戦死者祭祀に当てはめ、国家による英霊祭祀の本質を批判的に読み解こうとした。
さまよえる英霊たち―国のみたま、家のほとけ

さまよえる英霊たち―国のみたま、家のほとけ

国家が死者を祭祀するとはどういうことか。残念ながら新しい戦争の時代となってしまった現代ではこの問いはますます重いものとなっていくだろう。
日本ではそれは靖国神社という宗教法人のあり方をめぐる問題として議論されている。いわゆる「靖国問題」とは、首相の公式参拝の是非をめぐる外交ゲームとしてではなく、国家と死者との関係を問うものとして考えられなければならない。この問題に関しては最近、高橋哲哉の明晰な論考『靖国問題 (ちくま新書)』が出て議論が盛んになっているが、高橋の分析以前にもいくつもの試みがあったことをメモしておきたい(公平のために書き添えておけば、もちろん高橋は以下に記す先行研究はリサーチしている)。
靖国神社の祀る神は「英霊」と呼ばれる。田中丸はこの「英霊」という言葉の変遷をさかのぼり、それが「御霊」に代わる言葉として用いられた近代的な概念であることを明らかにした。
田中丸は英霊について、次のように喝破している。

怨霊や御霊は霊威を示して人びとを畏怖させたが、「英霊」は美談や手本となって人びとを動かすことになる。その意味でも「英霊」は、日本の近代が発見した、大衆化した御霊の異称であったということができる。

御霊(怨霊=祟り神)を英霊と呼び替えることで何が行われてきたのか。
かつて御霊信仰を論じた『悪霊論―異界からのメッセージ (ちくま学芸文庫)』で「『英霊』という美名を与えられて靖国神社に祀られている死者たちのなかにも、祟ることができないで嘆き呻いている怨霊もきっといる」だろう、と呪いの言葉を代弁した小松和彦は、『神なき時代の民俗学』で「誰が『たましい』を管理できるのか」と問いかけている。
小松によれば靖国神社は、習俗としての死者祭祀を継承・利用しつつも、近代国家・軍隊の要請に応じて「戦没者の『たましい』は国家が管理する(慰霊・顕彰する)という、国家神道の中枢となる」役割を持ち、それによって「民衆的な『人神』祭祀の祀り手の位置に、国家が滑り込んできた」と指摘している。
死者を国家が管理するとは、私たちの死者への思い、記憶が拉致されたということである。それは歴史の意味を国家が独占することにもつながる。この拉致事件の真相に迫るためには靖国の大鳥居をにらみつけているだけでは何もわかりはしない。
田中丸は各地で行われている英霊祭祀と御霊信仰の実地調査を重ね、近代日本が作りだした国家のための慰霊システムを解明しようとしていたが、早すぎる死がその研究を打ち切らせた。さぞや無念だったろう。
しかし、民俗学そのものの近代性をも問い直す鋭い視点と、近代国家と宗教の関係を明らかにしようとした構想、そして興味深い調査記録が『さまよえる英霊たち』という遺稿集として私たちに遺されたのは幸いであった。田中丸の「残念」(この世に残した思い)が英霊としてではなく怨霊として、一人でも多くの人に取り憑くよう、ここにへたくそなオマージュを記して祈願する次第である。