前に取り上げた田中丸の試みとは別の道筋で戦死者の慰霊について考察した成果もある。
岩田の『戦死者霊魂のゆくえ 戦争と民俗』は、各地の戦死者祭祀をフィールドワークして、家の祭祀における戦死者は「ふつうの死者」のように祀られている点に着目し、そこに「国家及び国民の論理」とは異なる「民俗の論理」による戦死者祭祀を見出そうとしている。戦死者を「ふつうの死者」として祀ってきた「民俗の論理」からすれば「国家が不自然な多重祭祀を生み出すことなど、死者への冒涜のきわみ」だという。
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どうも死者を冒涜する方法は、慰霊碑にペンキをかけたり、折り鶴を燃やしたりするだけではないらしい。例えば、遺族ならざるものが戦死者を「英霊」として顕彰することもまた、冒涜のきわみ以外の何ものでもない、ということなのだ。そうすると靖国神社には、怖いもの知らずの生者たちの欲望と、冒涜された死者たちの無念の思いが渦巻いているということにでもなろうか。恐ろしいことである。
死者の冒涜という行為を恐ろしいというのは、死者の復讐という意味での祟りを恐れるがためばかりではない。祟りを恐れない生者が恐ろしいのである。
祟りとは、日本の伝統に従えば、死者という他者の顕現であり、他者の顕現は、レヴィナスによれば、他者の顔において現れ、「「殺すなかれ」という定めを語りつづける」。ふたたび、熊野の『レヴィナス入門 (ちくま新書)』から引いておこう。
他者の顔が殺人を禁じる、あるいはより正確に言えば、顔において微かにあらわれる他者の他性が殺人を不可能にするならば、「そこで他者が顕現し、私にうったえかけるその顔は、われわれに共通のものでありうる世界と手を切っている」(『全体性と無限』)。(熊野、p144)
もし日本の伝統にフランスの賢者の知恵を接ぎ木することが許されるならば、死者の祟りを恐れずに死者を冒涜する行為は、他者の顔が語りつづける「「殺すなかれ」という定め」に耳をかさない、それを踏みにじる、ということになる。
だから、死者を冒涜する行為は、やはり、とても恐ろしいことなのだ。