破壊的性格4

短いエッセイだが、寓意的な表現がうまく読み取れないで苦労した。
ある方から、ユダヤ神秘主義の影響もあろうと教えていただいたが、そちら方面の素養に欠けるので、付け焼き刃はあきらめてただただ呆け中年脳だけで読み進める。

破壊的性格は、歴史的な人間という自覚をもっている。歴史的な人間の基本的心情は、事物の成りゆきにたいするやみがたい不信であって、いつでも、何かもだめになるかもしれぬ、ということに周到に入念な注意を払っている。したがって破壊的性格には、ほかの誰によりも信頼がおける。(ベンヤミン「破壊的性格」より)

この文章、前回の「破壊的性格は、伝統主義者たちの第一線に位置する」というパラグラフとあわせて読んでみると、ベンヤミンの絶筆「歴史の概念について」の第8テーゼが連想される。

 被抑圧者の伝統は、ぼくらがそのなかに生きている「非常事態」が、非常ならぬ通常の状態であることを教える。ぼくらはこれに応じた歴史概念を形成せねばならない。このばあい、真の非常事態を招きよせることが、ぼくらの目前の課題となる。それができれば、ぼくらの反ファシズム闘争の陣地は、強化されるだろう。ファシズムに少なからぬチャンスをあたえているのは、ファシズムの対抗者たちが、歴史の規則としての進歩の名において、ファシズムに対抗していることなのだ。−−ぼくらが経験しているものごとが二〇世紀でも「まだ」可能なのか、といったおどろきは、なんら哲学的では〈ない〉。それは認識の発端となるおどろきではない。もしそれが、そんなおどろきを生みだすような歴史像は支持できぬ、という認識のきっかけとなるのでないならば。(ベンヤミン「歴史の概念について」邦訳『ボードレール岩波文庫、p334)

ファシズムに少なからぬチャンスをあたえているのは、ファシズムの対抗者たちが、歴史の規則としての進歩の名において、ファシズムに対抗していることなのだ」というのは、まったくその通りだよなあ。いや、すべてに当てはまるわけではないけれど、わら人形としての「サヨク」のカリカチュアとしては今でもそのまま通じる。
亡命先のパリからさらなる亡命を決意しなければならなくなったベンヤミンにとって「ぼくらが経験しているものごとが二〇世紀でも「まだ」可能なのか、といったおどろき」があったことも、ここ数年のわが身に置き換えて、二一世紀でも「まだ」可能なのか、と言い換えたくなる。人類は進歩しないようですよ、ベンヤミンさん。
それにしても「歴史哲学テーゼ」を連想できたのは収穫だった。「被抑圧者の伝統は、ぼくらがそのなかに生きている「非常事態」が、非常ならぬ通常の状態であることを教える。ぼくらはこれに応じた歴史概念を形成せねばならない」か。なるほど。

破壊的性格は、何ものをも持続的とは見ない。しかし、それゆえにこそかれには、いたるところに道が見える。ほかのひとびとが壁や山岳につきあたるところでも、かれは道を見いだす。だが、いたるところに道が見えるので、いたるところで道の邪魔者を片づけねばならぬ、ということにもなる。といっても、粗暴な力を振るうとは限らず、ときには洗練された力を用いる。また、いたるところに道が見えるので、かれ自身はつねに岐路に立っている。いかなる瞬間といえども、つぎの瞬間がどうなるのか、分からない。既成のものをかれは瓦礫に返してしまうが、目的は瓦礫ではなくて、瓦礫のなかを縫う道なのだ。(ベンヤミン「破壊的性格」より)

ところで、これ誤植ですよね。
「既成のものをかれは瓦礫に返してしまうが、目的は瓦礫ではなくて、瓦礫のなかを縫う道なのだ」という文章(岩波文庫、p244)の「瓦礫に返してしまう」というところ、「瓦礫に帰してしまう」でしょう?
たぶん、訳者から手書き原稿を受け取って、入力するときに「帰してしまう」を「カエシテシマウ」と読んで、誤変換したんだと思うな。どーでしょ。
「破壊的性格は、何ものをも持続的とは見ない」というのを読んで、はじめは「何ものをも持続的とは見ない」のなら伝統主義者とは言えないじゃないか、と思ったものだが、これも原典で読んでいないので大きな口はたたけないが、「持続的」と訳されている語は、「恒久的」とか「固定的」と訳すべきだったんじゃないかと思う。
それはともかく、もはや破壊的性格の特徴は明確である。それとともに、この「破壊的性格」と題された文章が明るい調子を帯びているわけも、すでにおのずから見えてきている。

破壊的性格の叙述が明るいのは、破壊的性格が閉塞状況に対する突破力の擬人化だからだろう。破壊的性格自身は孤独であるかもしれないが、その存在は希望である。
破壊的性格は歴史的人間であるが、その自覚は「つねに岐路に立っている」というものである。運命論的な「しょうがない」精神とは対極にある。

最後の一節。

破壊的性格が生きているのは、人生は生きるに値する、という感情からではない。自殺の労をとるのはむだだ、という感情からである。

でも、ベンヤミンは、亡命は不可能になったと思いこんでピレネーの山中で自殺した。彼自身は破壊的性格ではなかったということか。