学生時代に読んでおくべきだった―夏目漱石『こころ』

漱石の『こころ』は、学生時代に何度か挑戦しては読み切れずに放りだしていた。最初に読んだのは高三のときだったと思う。登場人物がくよくよ悩むばかりで何が面白いのだか、さっぱりわからなかった。大学生になって桶谷秀昭先生の授業に出たら、夏休みのレポートの課題図書に指定されたので再挑戦したが、三角関係に悩む話がますますつまらなく感じてレポートを書きあげないまま投げ出してしまった。その後も他の本で引用されたり言及されたりしている箇所を確認するために拾い読みしたことはあったが、小説として最初から最後まで通して読んだことはなかった。文学には相性というものがあって、この作品は私とは相性が悪いのだと諦めていた。
ところが最近ふと手に取って通勤電車の中で読みはじめたら、たいそう面白く読みふけってしまった。
広く知られた名作なので紹介も感想も必要ないだろう。ただ、学生時代の私がどうしてこの面白い小説を読めなかったのか、単に読み通すことができなかっただけではなく読むことが苦痛だったのかはわかった。若いころの私は、作中で「先生」と呼ばれる人物が、語り手にとって尊敬に値する隠れた思想家のように描かれていることに引っかかったのであった。さらに言えば、後半の先生の遺書の中に出てくる友人Kもまた、先生にとって尊敬すべき求道者のような青年として描かれている。
ところが、この「先生」とは、ただ食うに困らないだけではなく結婚して所帯をかまえてなお無職でいられるほどの親の遺産をもらって暮らしているだけの裕福な若者にすぎない。
まだ学生の語り手から見れば、すぐれた先輩に見えたことだろう。その気持ちは私も学生だったからわかる。今風にたとえるなら、学部生から見れば、優れた成績を挙げながら何年も就職が決まらないのに焦った様子を見せないポスドクの先輩は、高遠な志を秘めている人のように見えるだろう。
実際に漱石はそのように描いている。ただそれは学生の視点から描いているからそう見えるのであって、実際の「先生」は、実家が非常に裕福なので就職活動にあくせくしないですんでいるだけのインテリ青年にすぎないのである。ところが、語り手にはそれが見抜けない。ついでに言えば、「先生」の友人Kも「先生」の視点からは求道者風に見えるのだが、実際は世間知らずの一途な学生にすぎない。
語り手がそれを見抜けない理由は二つ。語り手が「先生」に恋をしているからである。これは物語の前半で「先生」のセリフによって指摘されている。もう一つは、語り手自身が裕福な地方の旧家の子で、いざとなれば親の家を継ぐという選択肢があったからである。これも物語中盤で暗示されている。
若かった私がこうした漱石の設定に気づかなかったのは、なにやら深遠なテーマが展開されているらしいという、どこで刷り込まれたのだか見当違いな期待によって、物語の先を急ぐあまり前半を飛ばし読みしていたからである。海水浴場での一目ぼれに近い「先生」との出会いや、実家の父が病気に倒れて語り手が一時帰省するエピソードは大事な伏線だったわけだ。
先入観を抜いてあらためて読んでみると、この小説は人間心理への洞察や、処世訓を多分に含んだ面白い小説であって、学生のうちにきちんと読んでおくのだったと、今さらながら思ったのだった。